第6章 下手な演技は引っ込めろ
黒谷優は眉をきつく寄せ、その一言で理由もなく怒りに火がついたのか、声を荒げた。
「詩乃はお前の妹だろ。姉さんのくせに、心配の一つもしないのか?」
「乗れ。二度は言わない」
冷たい眉眼の奥に濃い苛立ちが沈み、言葉には有無を言わせぬ圧がある。南坂海乃が拒めば、その瞬間「冷酷な女」の烙印を押される――そんな空気だった。
南坂海乃は車のドア枠を掴む指先に、じわじわと力を込める。
二人が睨み合ったまま動かないでいると、黒谷楓花がとうとう焦れた。海乃を見る目に、露骨な非難が混じる。
「ママ、もうやめてよ! おばちゃん、パパがサインしに行くの待ってるの! おばちゃんに何かあったら、絶対許さないから!」
幼い声。責める視線。
鈍い刃で心臓を削られるみたいに、痛い。
まるで佐藤詩乃の急変が自分のせいだと、そう決めつけられているかのようで。
南坂海乃の瞳がすっと陰る。もう父娘と押し問答をする気力もなく、黙って車に戻った。ドアを閉め、窓の外へ顔を背ける。こみ上げる熱を、必死に喉の奥へ押し戻しながら。
耳に飛び込んできたのは、黒谷優の苛立った催促だった。
「急げ!」
「はい、黒谷社長!」
運転手は額に汗を浮かべ、赤信号をいくつもかすめる勢いで病院へ突っ込んだ。
停車した瞬間、黒谷優は黒谷楓花を抱き上げて飛び出し、病院へ向かって駆けていく。
南坂海乃は無表情のまま車を降りた。
病室の前まで来たとき、彼女は目にした。
佐藤詩乃がベッド脇に座り、黒谷優に縋りつくように抱きついている。肩を震わせ、嗚咽を押し殺すように泣いていた。
「どいてください」
南坂海乃は氷みたいに冷えた声で言い、人垣を割って病室へ入った。
――その瞬間。
黒谷優が手近な花瓶を掴み、無造作に投げつけてきた。
南坂海乃は瞳を見開き、とっさに身を捻る。花瓶は壁に叩きつけられ、ばらん、と砕け散った。飛び散った破片が足首をかすめ、ちり、と痛みが走る。
「何するのよ」
黒谷優の整った顔には怒りだけが残っていた。低く、噛み殺すような声。
「お前……なんでそんなことをした」
南坂海乃は眉をひそめ、問い返そうと口を開きかける。
その前に、佐藤詩乃が黒谷優の胸から顔を上げた。青白い頬。真っ赤に腫れた目。涙で濡れた睫毛が震え、いかにも儚げだ。
「お姉ちゃん……私、何かした? どうしてこんなことするの?」
「今回の国際大会がどれだけ大事か、お姉ちゃんだって知ってたはずなのに……なのに私の身の上を、匿名で主催者に送りつけた。しかも、私と黒谷優が不適切な関係だなんて、そんな噂まで流して……!」
詩乃は息を呑み、涙を落としながら続ける。
「主催者が、私の出場枠を取り消すって……ねえ、これで満足?」
佐藤詩乃は幼いころからピアノの才能を評価され、佐藤家の肝いりで育てられてきた。今では名の通ったピアニストでもある。
事情を飲み込んだ瞬間、南坂海乃は愕然と目を見開いた。
「違う……私じゃない! やってない!」
そもそも詩乃がコンクールに出ることさえ、彼女は知らなかったのだ。裏で邪魔などしようがない。
「ママ……最低」
黒谷優だけじゃない。実の娘である黒谷楓花まで、海乃を信じなかった。
嫌悪を隠しもしない目で見上げてくる。
「おばちゃんに謝ってよ」
「だから、違うの!」
頭の中が、ぶわっと白くなる。
怒りと、悔しさと、息が詰まるほどの悲しさが一気に込み上げ、南坂海乃は思わず一歩踏み出した。
「なんで私がそんなことするの? 私に何の得があるの? それに、私は――」
「もういい!」
黒谷優の冷声が言葉を断ち切った。
その視線は、凍てつくほど冷たい。ゆっくり、一語一語を突き刺すように告げる。
「お前はあのニュースで嫉妬した。それだけだ。詩乃の人生を壊したかったんだろ」
「詩乃は優しくて、いつも周りのことを考えてる。あんなことをするのは……お前以外にいない」
「南坂海乃。言い訳はやめろ。まさか、お前がここまで性根の腐った女だとは思わなかった。今のお前は、もう別人だ」
南坂海乃の顔から血の気が引いた。
調べもせず、確かめもせず。
黒谷優は「最初から」彼女を犯人に決めていた。
病室の外にいた野次馬は、彼と詩乃と楓花の様子を見て、三人が家族だとでも思ったのだろう。配信を回しながら、口々に罵声を浴びせる。
「見てこれ! 浮気相手のくせに奥さんの立場に居座って、黒谷夫人を陥れてる!」
「こんな女、見たことない。キモい、消えろ!」
配信していた若い女が、不意打ちで南坂海乃を突き飛ばした。
どさり。
南坂海乃は床に倒れ、痺れるような感覚のまま顔を上げる。
黒谷優と黒谷楓花は、冷え切った目で彼女を見下ろすだけで、止めようともしなかった。
佐藤詩乃がまた黒谷優の胸にしがみつく。
「黒谷優……もう、あの人を追い出して。二度と会いたくない……!」
黒谷優は詩乃の背を、優しく、とんとんと叩いた。
そして、床に座り込んだままの海乃へ視線を投げる。刃物みたいな冷たさで、薄い唇が動いた。
「まだいるのか。出ていけ」
その一言で、南坂海乃の中の何かが、ぷつんと切れた。
心が、すうっと冷えていく。
彼女はよろめきながら立ち上がり、足を引きずって病院を出た。
まるで幽霊みたいに、行き先もなく街を歩く。
ネオンがちかちかと瞬き、逆に彼女の影だけが際立って寂しい。
角を曲がったとき、背後から、ばたばたと荒い足音が迫った。
振り返るより早く、大きな手が伸びてきて口と鼻を塞がれる。
「んぐっ……!」
恐怖が波のように押し寄せる。
視界に入ったのは、顔に傷のある男の、歪んだ面相だった。
南坂海乃は隙を見て、男の股間に思いきり蹴りを叩き込む。男が呻いた瞬間、彼女は駆け出し、震える手でスマホを探った。
「くそっ、待て!」
男は顔を引きつらせ、怒鳴りながら追ってくる。
怖い。息が乱れる。足がもつれそうになる。
慌ててスマホを取り出し、通報しようとした――そのとき。
画面に表示されたのは、黒谷優からの着信。
手が震えて、気づけば通話は繋がっていた。
南坂海乃は走りながら振り返る。男は、もうすぐそこまで来ている。
歯を食いしばり、必死に声を絞り出した。震えは隠せない。
「黒谷優……私、つけられてる! お願い、助けて……今、私――」
「くだらない芝居はやめろ」
冷たい声が、耳を刺す。
「同情を買おうとしても無駄だ」
海乃が言い終える前に、ぶつりと通話が切れた。
暗くなった画面を見つめ、南坂海乃の胸に絶望が沈む。
体力は限界だった。脚が鉛みたいに重い。足首の傷も、じくじく痛む。
もう一度、通報を――。
その瞬間、男が追いついた。
手が跳ね、スマホは叩き落とされる。次の瞬間、喉元を強く掴まれ、息が詰まった。
「逃げろよ。ほら、逃げてみろ」
耳元で、低く湿った声がした。
男は彼女を暗い路地へ引きずり込み、床へ投げ捨てる。
押さえつけられそうになった刹那、南坂海乃は残った力で男を蹴り飛ばし、這うように立ち上がって逃げようとした。
だが――髪を掴まれる。
ぱん、と乾いた音。
頬を強烈に打たれ、視界が揺れた。
事故の後から続く眩暈も重なり、耳鳴りがキーンと響く。
南坂海乃は床に崩れ落ち、もう指一本動かせない。
男が彼女の上に跨がり、目に卑しい光を浮かべた。乱暴な手が、最後の防壁を剥ぎ取ろうとする。
南坂海乃は、絶望のまま目を閉じた。
「――あっ!」
鈍い衝撃音。
体の上の重みが、消えた。
南坂海乃が目を開くと、黒谷優が立っていた。
全身から冷気を放ち、ストーカーを蹴り飛ばしている。
次いで彼は振り返り、外套を脱ぐと、乱暴にならないよう――けれど急ぐように、そっと彼女を包んだ。
その手が震えているのが、はっきり分かった。
「南坂海乃……」
掠れた声。
南坂海乃は顔を上げ、黒谷優の瞳に浮かぶ動揺を見た。
心配しているのか。それとも、面倒事を恐れているだけなのか。
それでも胸の奥に、かすかな光が灯る。
――来てくれた。
こんなに、取り乱している。
もしかして。
彼の心のどこかには、まだ自分がいるのだろうか。
